♪53嗚呼神風特別攻撃隊 23・08・15

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世田谷観音(特攻観音)

 世田谷観音は東横線の祐天寺駅、学芸大学駅、田園都市線の三軒茶屋駅、駒沢大学駅の真ん中に位置している。
 学芸大学駅で下車。歩くこと15分、東京学芸大学附属高校の正門に着く。ここには昭和39年(1964)まで東京学芸大学があったが、小金井市貫井(最寄駅は国分寺駅)に移転したため、高校の敷地としては広大だ。
 港区北青山3丁目(当時は赤坂区青山北町5丁目)にあった東京府青山師範学校を東急の五島慶太が誘致してきたもので、戦後は4つの師範学校を母体とした東京学芸大学が設立された。学芸大学駅という駅名はその由縁である。その広大な校庭に隣接して世田谷観音(正式には世田谷山観音寺)がある。


東京府青山師範学校の跡地の北青山は、戦後初の都営住宅となった。現在は住民の退去が進められていて一帯の再開発が噂されている。

駅名変遷の歴史
昭和02年:碑文谷駅として開業(碑衾村大字碑文谷だった為)
昭和11年:青山師範駅に改称(青山師範学校を誘致してきた為)
昭和18年:第一師範駅に改称(改正師範教育令で東京第一師範学校となった為)
昭和27年:学芸大学駅に改称(学制改革で学芸大学となった為)
昭和34年に小金井市に移転したが、付属高校が残っているので、駅名はそのままになっている。今のところ碑文谷駅に戻す気運にないようだ。
碑文谷駅 → 青山師範駅 → 第一師範駅 → 学芸大学駅

 「七難即滅、七福即生」と書いてある杭に乗ると、太陽の異変、星の異変、風害、水害、火災、旱害、盗難といった七難がたちどころに消えて、七福神がやって来るというのかニャ~。「七難即滅、七福即生 、七難即滅、七福即生」。
 正面に見えるのが仁王門で、その奥に観音堂(本堂)がある。本堂の龍の彫刻が素晴らしい。その左隣に特攻観音堂がある。そのことからここは特攻観音ともいわれている。

  
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特攻観音堂

 立て札には、特攻平和観音:国のために生還を期することのない特攻作戦に志願して若き命を捧げた特攻隊員英名(英霊の名?)6,418柱が奉蔵されている、とある。
 特攻隊員の7割が学徒出身であった。彼らに死を強要(表向きは志願)した懺悔に来ました。戦争を他の手段をもってする政治の延長と位置付けることを忘れまいと誓った。


陸軍2,244柱(航空1,355柱、空挺及び降下615柱、海上挺進265柱、戦車9柱)
  海軍4,174柱(航空2,548柱、特殊潜航艇437柱、回天104柱、震洋1,085柱)

特攻観音堂の前にある石碑
 特別攻撃隊の頌(しょう、誉めるの意)
 わが国が存亡をかけた大東亜戦争において若干17、8歳から30歳代までの勇士が、肉親への愛着を断ち切り洋々たるべき人生を捨てて、空に、海に、陸に、決然として肉弾攻撃を敢行し、偉大なる戦果を挙げ、ことごとく散華された。その数およそ6千柱。壮烈無比なこの攻撃は敵の心胆を寒からしめ、国民はひとしくその純忠に感泣した。
 特別攻撃隊の戦闘は、真に至高至純の愛国心の発露として国民の胸奥に生き続け、また世界の人人に強い感銘を与え、わが国永遠の平和と発展の礎となっている。
 ここに心から愛惜の情をこめて特別攻撃隊の諸史料をこの遊就館に納め、その精神と偉業とを後世に伝える。 昭和60年12月8日 特別攻撃隊慰霊顕彰会

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神州不滅特別攻撃隊之碑

 碑文にはこう刻まれている。「第二次世界大戦も昭和20年8月15日祖国の敗戦という結末で終末を遂げたのであるが、8月19日午後2時、当時満州派遣第675部隊に所属した今田均少尉以下10名の青年将校が、国破れて山河なし生きてかひなき生命なら死して護国の鬼たらむ、と又大切な武器である飛行機をソ連軍に引き渡すのを潔しとせず、谷藤少尉の如きは結婚間もない新妻を後に乗せて、前日に二宮准尉の偵察した赤峰付近に進駐し来るソ連戦車群に向けて、大虎山飛行場を発進前記戦車群に体当り全員自爆を遂げたもので、その自己犠牲の精神こそ崇高にして永遠なるものなり此処に此の壮挙を顕彰する為記念碑を建立し、英霊の御霊よ永久に安かれと祈るものなり」とある。

 事の是非はともかく、安らかにお眠り下さい。

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あゝ特攻

 特攻一色に凝り固まっていた最中(さなか)でも、艦上爆撃機・彗星一二型を中心とする夜間爆撃隊 『芙蓉部隊』 (指揮官:美濃部正少佐)は特攻しなかった。

彗星一二型は水冷式エンジンで扱い難く敬遠されていた。そのため空冷式の彗星三三型が量産されると、彗星一二型は運用から外されていった。そこに美濃部は目をつけ彗星一二型をかき集めるとともに、整備士を製造元の愛知航空機に派遣して習熟させたうえで、芙蓉部隊で運用していった。

レーダーの発達したアメリカ軍に対しては、夜襲戦法で敵空母甲板、敵飛行場滑走路を爆撃するのが有効であると、美濃部少佐は考えた。

 昭和20年2月、海軍木更津航空隊基地で行われた艦隊司令部・沖縄戦作戦会議の席上、美濃部少佐は練習機を含めた全機特攻に敢然と反対した。

 「ここに居合わす皆さんは、指揮官や幕僚で自ら突入する人はいない。必死尽忠と言うが敵の弾幕をどれだけ潜ったというのです。失礼ながら私は回数において皆さんの誰よりも多く突入してきました。今の戦局に指揮官が自ら死を賭しているのか。搭乗員の練習不足を特攻の理由に掲げているが、指導訓練の創意工夫が足りないのではないか。」
 「私の所では飛行時間200時間のパイロットでも夜間洋上進撃が可能です。劣速の練習機が何千機進撃しようとも昼間ではバッタのごとく落とされます。」
 「艦隊司令部は芙蓉部隊の若者たちの必死の訓練を見ていただきたい。トロくさい赤とんぼ(練習機)をいくら特攻に出したところで、艦船の遥か手前で打ち落とされるのがオチです。嘘だと思うなら、ここにいる皆さんが実際に乗ってごらんなさい。私が一機で全て撃墜してみせます」。

 美濃部少佐は、その場の最下級者で、しかも当時29才の若手仕官です。それが司令部の方針を批判したのですから、抗命罪(上官の命令に反抗し、又は服従しない罪)で軍法会議にかけられても仕方がない。
 
 でも、そうならなかった。美濃部少佐の正論を認めざるを得なかった。そして、美濃部は、自身の言葉どおり夜間爆撃を粘り強く続け、芙蓉部隊は特攻以上の戦果を上げて見せたのだった
(延べ630機を出撃させ、損害は47機、未帰還隊員は76名)。
 
 十死零生の 「特攻」 とは、いったい何だったのでしょうか?特攻第1号として、関行男大尉は、「通常攻撃でも爆弾を命中させる自信がある。そんな俺に体当たりを命じるなんて、我が日本は終りだ」と、慨嘆(がいたん、憤り嘆くこと)し出撃して行った。死んで2階級特進し軍神となった。

最大速度
彗星一二型:580km/h
中間練習機:219km/h、作業練習機「白菊」:229km/h、米機P51:700km/h

搭乗員の訓練は効率第一とし、実用的なことのみを徹底して教えたため、訓練時間を3分の1にまで短縮することに成功した。
武装面では、対地・対空用のロケット弾、空中で爆発して爆風と破片で周囲に被害を与える光電管爆弾など特殊爆弾を積極的に採用。敵使用の飛行場に光電管爆弾を投下し使用不能にさせた。

芙蓉部隊の基地
・前線基地:岩川基地(鹿児島県大隅町)・・鹿屋基地の北30km
・後方基地:藤枝基地(静岡県)・・芙蓉峰(富士山)から芙蓉部隊
前線で疲れた隊員を後方基地に移すという、当時の日本ではまずあり得ないシステムであった。半独立集団といわれる所以である。

硫黄島ノ戦い : 昭和20年2月19日~3月26日
沖縄戦 : 昭和20年3月26日~6月20日

 美濃部少佐はヒューマニズムから特攻を否定したのではなかった。適切な通常攻撃法を採用できれば、高い士気を維持しつつ、搭乗員を生還させることにより実戦での練度を向上させての反復攻撃によって特攻より大きな戦果が可能であるために、合理的見地から特攻を否定したのであった。
 しかし、7月に入ってアメリカ軍の九州上陸が噂されるようになった。もうこれ以上の通常攻撃は意味がないとして、特攻計画を立てるも、8月15日 終戦。


戦後、美濃部正は航空自衛隊創設期より勤務し、奈良幹部候補生学校長を経て、昭和45年、空将で退官。平成9年他界、享年82。

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世田谷公園

 チビはさかんに顔をキレイ、綺麗している。

 世田谷公園は特攻観音から北に800m。かつてここら一帯は陸軍の練兵場などの軍用地だった。
 戦後、特攻には反対であったという指揮官が多くいた。戦局が悪化の一途を辿る中とはいえ、特攻出撃した若者たちにとっては、その時に 「特攻には反対」 と言ってくれる指揮官の方がどんなに嬉しかったであろう。
 「平和の灯」(向井良吉 作)を見上げながら、散華された英霊に鎮魂歌 『あゝ神風特別攻撃隊』 を捧げる。


♪ 嗚呼神風特別攻撃隊
[作詞]野村俊夫 [作曲]古関裕而 
一、
無念の歯噛み(はがみ)堪え(こらえ)つつ
待ちに待ちたる決戦ぞ
今こそ敵を屠(ほふ)らんと
奮い起ちたる若桜

二、
この一戦に勝たざれば
祖国の行く手 いかならん
撃滅せよの命(めい)受けし
神風特別攻撃隊

三、
送るも征くも今生の
別れと知れど頬笑みて
爆音高く基地を蹴る
あゝ神鷲(みわし)の肉弾行(にくだんこう)

四、
大義の血潮 雲染めて
必死必中 体当り
敵艦などて逃す(のがす)べき
見よや不滅の大戦果

五、
凱歌は高く轟けど
今は帰らぬ丈夫(ますらお)
千尋の海に沈みつゝ
尚も皇国(みくに)の守り神

六、
熱涙伝う顔上げて
(いさお)を忍ぶ 国の民
永遠に忘れじ その名こそ
神風特別攻撃隊
神風特別攻撃隊


昭和19年10月25日、神風特別攻撃隊が初の突入を敢行。その成果が10月28日に海軍省から発表された。この歌はその日の夜にNHKから急遽放送された。なお、レコードは昭和20年3月に録音されたが、音盤は発見されていない。

多くの隊員の技量はA、B、C、DのDで技量不足、しかも特攻機の装備と攻撃法では全く歯がたたず、正規空母、戦艦、巡洋艦の撃沈はゼロ。
「大日本帝国万歳」と言う者は殆どなく、愛する人の名とか、「お母さ~ん」、「海軍のバカヤロー」と叫びながら散華していった。隊員の苦悶が分かれば、美化することなどできない。特攻を美化してはいけない。

平成19年7月15日のチビのお出かけ120 「世田谷公園のSL」 を見てね!
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by chibi-papa | 2011-08-15 13:38 | チビの愛唱歌  

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