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護良親王の最期23・07・23

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神妙な面持ちのチビ、鎌倉宮にて

 幽閉中の護良親王が足利尊氏の弟に殺害されたのは、今から676年前の今日だった。

 1331年、後醍醐天皇は元弘ノ変(げんこうノへん、2度目の鎌倉幕府討幕運動)を起こすも捕えられ、隠岐島へ配流となった(日野俊基は斬罪)。こうして倒幕運動は鎮圧されたかに見えた。
 
 そうした中、護良親王は還俗(げんぞく、出家した者がもとの俗人に戻ること)して吉野で挙兵し倒幕の令旨(りょうじ、親王の命令書)を発した。楠木正成は千早城で挙兵。2年にわたり倒幕運動を展開した。足利尊氏は幕府方であったが、途中で幕府へ反旗を翻し、六波羅探題を攻め落とし京都を制圧した。しかし、護良親王は討幕の功労者足利尊氏とは相容れず、尊氏を牽制する。
 建武ノ新政(けんむノしんせい、1333年)で、護良親王は征夷大将軍に、足利尊氏は鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)となった。


最初の鎌倉幕府倒幕運動は正中ノ変(しょうちゅうノへん、1324年)という。

建武ノ新政 : 念願の鎌倉幕府滅亡を果たし、150年ぶりに政権を取り戻し、後醍醐天皇は京都に戻って天皇自らが政治を行う。まず幕府滅亡の翌年、元号を「建武」と改める。しかし所領の再確認などで武士たちは後醍醐天皇に失望し、新たなるリーダーに足利尊氏を求めだした。そうはさせじとする護良親王。

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幽閉されていた土牢

 1334年、足利尊氏は後醍醐天皇に護良親王が皇位簒奪(こうい さんだつ、皇位を奪い取ること)を企てていると囁く。天皇の意を受けた者が護良親王を捕らえ、足利方に身柄を預けてしまう。護良親王は鎌倉へ送られ、鎌倉将軍府(建武ノ新政における関東統治機関)では足利直義(尊氏の弟)の監視下に置かれ土牢に幽閉される。

 翌年、北条時行(ときつら、14代執権だった北条高時の次男)の中先代ノ乱(なかせんだいノらん)が起き、鎌倉を奪還すべく侵攻して来た。このまま親王を生かしておいては危険だと判断した足利直義は、幽閉中の護良親王を手の者に殺害させて、鎌倉から退却したのであった。


♪ 鎌 倉
[作詞]芳賀矢一 [作曲]不詳 (文部省唱歌) 
六、
鎌倉宮に 詣でては
尽きせぬ親王(みこ)の み怨みに
悲憤の涙 湧きぬべし


 チビちゃん、あんた泣いてのね。

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鎌倉駅前の不二家のペコちゃん

□ あっ、ペコちゃん。あのねぇ~、護良親王が殺害された日だというので、親王の冥福を祈るため鎌倉宮に行ってきたんだけど、誰もいなかったよ。

■ 猫なのに馬か鹿なの?7月23日は旧暦。だから新暦の8月12日に近い20日に鎌倉宮最大の祭典が行われるのよ。

□ あ~、そうだったの。どうも変だと思ったんニャ。ペコちゃんありがとう!でも、ボクは正真正銘の猫であって、馬でもないし鹿でもないニョ~。

■ あらご免なさい(と言って、舌を出すペコちゃんであった)。8月20日にまた鎌倉に来なさいよ。

by chibi-papa | 2011-07-23 23:25 | チビのお出かけ  

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