日勤教育の果て(223) 22・04・25

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東西線・中野駅

 東京メトロ・東西線は東京の東西に延びる、西船橋駅・中野駅間31kmの路線で、JR三鷹駅まで相互直通運転している。ラインカラーは青。隣の黄色い電車はJR中央・総武緩行線(千葉駅・三鷹駅間60km)

 ラインカラーが黄色といえば福知山線(JR宝塚線)もそうだ。JR宝塚線は尼崎駅でJR東西線に接続し、大坂の京橋駅まで直通運転している(事故後、塗装を黄色から青色に変えた)。
 その尼崎駅付近で5年前の今日、時速116キロで急カーブ(半径304m)に突っ込み、脱線。先頭の2両が線路脇のマンション「effusion尼崎」にめり込み、乗客106人と運転手が死亡(562人が負傷)するという大惨事「JR福知山線脱線事故」が起きた。現場カーブにはATSすら設置されていなかった。


大阪中心部(京橋)へ乗り入れるため現場を急カーブに付け替えた際、危険性を予測できたにも拘わらずATS(automatic train stop、自動列車停止装置)の設置を怠った。

一昨日の23日、強制的に起訴されていたJR西日本の歴代社長(井手正敬、南谷昌二郎、垣内剛)の公判が始まった。当然この3名には責任があると思う。

国鉄民営化したとは言っても、もともとは極右会社のJR。この脱線事故を契機に体質を改めないと、とんでもなく暴走してしまう可能性がある。
中でも最右翼なのがJR東海の葛西敬之(かさい よしゆき)代表取締役会長である。要注意人物。


 その運転手は約1年前にも停車位置を行き過ぎたことで、13日間の懲罰的な日勤教育を受けていた。「日勤教育は顛末書や反省文を書かされた後はレポートや社訓みたいなものを一日中書かされた。こういう事をする意味が分からない」、「トイレにも上の者に断らなければならず嫌だった」と友人に漏らしていた。
 日勤教育でのレポートは、指導担当者が欲しい言葉や言い回しが入っていないと何度も書き直しさせられた。日勤教育は指導担当者の苛立ちが表れていて、その本来の目的を逸脱していた。晒し者にして精神的な虐めをおこなっていた。それにしてもしつこい。
 こんな懲罰的な教育は逆に安全上の悪い風土を生む結果となった。再発防止に向かわずに、運転手を委縮させ嘘をつかせる土壌を生んでしまったのである。


 日勤教育と同じような懲罰が、特攻隊で出撃するも、整備不良などで戻って来た隊員に対しても行われていた。福岡の振武寮(しんぶりょう)などに押し込められ(既に死んだ者となっているので外部とは一切遮断)、一日中 「命が惜しくなって戻って来たか!」、「非国民!」と罵られ、反省文などを何度も何度も書かされた。食事の時には大本営から派遣されていた教官は 「お前ら、おめおめ帰って来て、それでよく飯が食えるな!」と大声で怒鳴りつけ、虐め抜いた。
 再度出撃の時は敵艦への体当りよりも先に、どこかに激突してでも死ぬことしか考えなかった。そうやって青少年を無駄死にさせた。


負け戦をした部隊は、連戦連勝の大本営発表を嘘としないために、捨て駒(潰す部隊)として何度も最前線で戦わせて、どうしても死んでもらわなければならいという発想。それは特別攻撃隊に対しても例外ではなかった。

 戦争とは外交手段の一方法であるということさえ、大本営は知らなかったようだ。
 その教官は戦後ず~っと、復讐が恐くて恐くて片時も日本刀と拳銃を離さな(銃刀法違反)かったと云う。

 
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坂の上の欅公園

 中野駅から4つ目の西荻窪駅で下車。徒歩10分の所に先週開園したばかりの 「坂の上のけやき公園」 がある。
 樹齢90年を超える欅は高さ19m、幹回り5.5mを誇っている。「坂の上の欅」 を見上げていると、司馬遼太郎(1923~1996 享年72)の長編歴史小説 『坂の上の雲』 が思い出されてくる。
 題名の『坂の上の雲』 は、封建の世から目覚めた我が国が、登って行けばやがて近代国家や列強に手が届くと思い、必死に登って行った。それを「坂の上の雲」に譬えた。
 暫し佇む・・・
 
 司馬遼太郎(しば りょうたろう)が亡くなってから、もう14年経つ・・・

NHKテレビの特別番組としての 『坂の上の雲』 全13回
 ・第1部 2009年11月29日~12月27日
 ・第2部 2010年12月5日~26日
 ・第3部 2011年12月4日~25日

 福知山線の終点は福知山。今から二百と8年と8日前には福知山藩8代藩主の朽木昌綱(くつき まさつな 1750~1802)が亡くなっている。江戸藩邸で生まれた昌綱は、古銭の収集から清国やオランダ、さらにヨーロッパの貨幣へと広がっていくうちに、地理に関心を持つようになった。そして杉田玄白や前野良沢らのチームに入り、オランダ語に取り組んだ。
 38歳で藩主になってからも地理研究を続け、1789年『泰西輿地図説(たいせい よちずせつ)』17巻を仮名交じり文章で表した。
 50歳で隠居。江戸に戻ってわずか2年で亡くなっている。享年52。高輪の泉岳寺に眠る。

『泰西輿地図説』(西洋 地図説)
  ・第1巻 ヨーロッパ総論
  ・第2~第14巻 各国の地誌
  ・第15~17巻 地図、都市図  





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by chibi-papa | 2010-04-25 21:10 | チビのお出かけ  

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