64回目の終戦記念日(204) 21・08・15 

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靖国神社

 靖国神社の神明鳥居は大きいニャ~!

 境内に遊就館(ゆうしゅうかん)という軍事博物館が併設されている。そこには航空特攻機 「桜花」(翼は木製、飛翔爆弾なのでエンジンがないので計器は3つしかない。800キロ爆装の人間爆弾)のレプリカ(複製品)や水中特攻艦 「回天」 (人間魚雷)などが展示されている。正規軍が搭乗者の生還が不可能なこれら特攻兵器を正式に採用し生産・運用したことは統帥(とうすい)の外道である。

 人の命を武器にしてはならない。これは「人肉を喰らってはならない」と同じくらい人間として絶対に守らねばならないことである。それを命じた者は外道である。しかし、出撃した若者に対しては深く哀悼を捧げる。

 大日本帝国憲法第1条 大日本帝国は万世一系の天皇これを統治す
(「万世一系の」という形容詞がなぜ入っているのだろう?)
 大日本帝国憲法第11条 天皇は陸海軍を統帥する
 大日本帝国憲法第20条 臣民は法律の定るところに従い兵役の義務を有す

 特攻兵器が軍の生産計画に基づいて、入手制限のあった資材を割(さ)いてまで生産される以上、特攻隊員が計画的に人選されていたと考えられる。軍令部は特攻兵器による攻撃をしてどんな終局を予測していたのであろうか。
 軍令部としては、社会全体に責任を負っていることなどということはどうでもよく、国民に犠牲を強い、国を破局へ向かわせたのは自身を優位に置くこと(権力維持、保身)しか考えていなかったのであろう。そういった判断を可能にさせたのは情報の統制であった。


 天を回(めぐ)らし戦局を逆転できると本当に思っていたのであろうか。昭和17年6月のミッドウェー海戦の敗北で大勢が決まった。さらに6ヶ月に亘るガダルカナル島での戦いの末、ガ島から転進(昭和18年2月)しても講和の道どころか、逆に東条英機は学徒出陣(昭和18年10月)に舵を取った。これによって多くの若者は死に、国土は焦土と化してしまった。

海軍はガダルカナル島ノ戦い(陸軍)を支援すべく計6回の海戦に挑んだが・・・
・昭和17年8月 第一次ソロモン海戦、第二次ソロモン海戦
・昭和17年10月 サボ島沖海戦、南太平洋海戦(サンタ・クルーズ諸島海戦)
・昭和17年11月 第三次ソロモン海戦、ルンガ沖海戦 

e0031605_23351082.jpg ・ アッツ島守備隊を見殺しにした(昭和18年5月)にも拘わらず玉砕公認第一号として祭り上げ、戦意高揚を図った。これにより参謀本部は責任を取らずに済ませた(アッツ島玉砕については平成21年6月20日の チビのお出かけ 198 を見てね)

 ・ 遊就館では12月8日まで1階企画展示室にて特別展をやっている。『矢弾丸(やだま)尽きるとも』・・・我レ生還ヲ期セズ・・・愛するものが住むこの国を守るため命をかけた英霊の思いを伝えたい、とある。

 ・ 統帥の外道である特攻兵器を展示できるのは、直向き(ひたむき)に国を家族を守るために死を悟った英霊によるところが大きい。

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千鳥ケ淵戦没者墓苑・献花

 SP(security police)らしき人がいる。野田聖子国務大臣を乗せた車が滑り込んで来た。

 航空特攻機・桜花(おうか)は特攻専用機で昭和19年8月に一号機が完成するも、レイテ沖海戦に間に合わず非常手段として戦闘機などを特攻作戦に使用した。しかし戦局の悪化に伴い特攻専用機以外の航空機での特攻が恒常化していった。
 ようやく桜花をフィリピン決戦に投入すべく空母信濃で移送中、潮岬沖にて撃沈(昭和19年11月)さる。後続部隊も空母雲龍で移送中、宮古島沖にて撃沈(昭和19年12月)、いずれもフィリピンまでたどり着くことさえできなかった。


空母雲龍はこのとき、水上特攻艇・震洋(しんよう、ベニヤ板製のモーターボートに爆薬を搭載したもの、終戦までに6,200隻製造)、グライダー空挺部隊もフィリピンへ移送中であったが、殆ど生存者はいなかった。なお、空母雲龍の竣工は昭和19年8月で、すでに搭載する飛行機がなく、空母として活躍することはなかった。

 桜花(人間ミサイル)が実戦部隊として出撃したのは九州沖航空戦であった。結果は全滅であった。母機の一式陸攻18機は桜花を吊ったまま全機撃墜され、護衛機のゼロ戦は30機のうち11機が未帰還であった。戦果は敵戦闘機1機のみの撃墜であった。
 計10回の出撃の結果、桜花パイロット55名、母機の搭乗員368名の戦死者に対し、沖縄戦で敵駆逐艦1隻の撃沈にとどまった。しかし軍部は本土決戦に備え桜花を増産し、房総半島南部の山中や比叡山延暦寺に桜花発進基地を造った。

 一方、回天による戦没者は1,361名であった。発進49基の戦果は駆逐艦1隻、給油艦1隻、歩兵揚陸艇1隻を撃沈、弾薬輸送艦1隻を大破した。

戦没者1,361名の内訳
・回天搭乗員  80名
・一緒に出撃した整備員 35名 
・未帰還の潜水艦8隻の乗組員 846名
・輸送艦の乗組員 255名
・敵機の基地襲来による戦死、訓練中の殉職など 145名

♪ あゝ回天
[作詞]山門芳馨(よしか) [作曲]長津義司(よしじ) [唄]山田 実
一、
小山(おやま)のうねり 砕けて返る
(ゆ)かば還らぬ 特攻隊
十九(つづ)や二十(はたち)の 若人が
港 徳山 大津島(おおづしま)
あゝ回天の 基地なるか
二、
省略
三、
遺書を残して 形見を置いて
今日は征くぞと 肩を抱き
白の鉢巻 白襷
(しろだすき)
呼べど呼べども あゝ回天
あゝ回天は 還らない


あゝ回天は 還 ら な い~

この歌は戦後の昭和44年制作されテイチクから発売された。
大津島は瀬戸内海の徳山港に浮かぶ島。

 昭和20年に入ると、首都圏防衛のため八丈島、千葉・大原、横須賀・小田和にも基地回天隊を配備したが、いずれも基地造成中に終戦を迎えた。

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東京都慰霊堂・焼香

  東京都慰霊堂は両国駅で下車して旧安田庭園を通り抜けた横網町公園内にある。
 陸軍被服廠(ひふくしょう)跡に関東大震災と東京大空襲での身元不明者の遺骨を納め、その霊を祀っている。

 軍首脳は本土決戦を叫び続け、とうとう日本本土の各都市が爆撃されることになる。それでも本土決戦を叫び続ける。

 東京は昭和19年11月以降、アメリカ軍から106回もの空襲を受けた。特に昭和20年3月10日(下町地区)、4月13日(城北地区)、4月15日(城南地区)、5月25日(山ノ手地区)は大規模な空襲であった。


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写真 『東京空襲 昭和20年3月10日 墨田区本所』 撮影:石川光陽

 その中でも特に規模が大きかったのが3月10日の空襲であった。
 写真が慰霊堂の天井近くに掲げられている。焼け焦げた遺体の山。この空襲で8万人から10万人が亡くなり、負傷者は4万人強。被災者101万人、被災家屋は27万戸にのぼった。実に東京市街地の東半分が焼失した。


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東京都慰霊堂・正面

               合掌
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by chibi-papa | 2009-08-15 23:33 | チビのお出かけ  

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