鎌倉・祇園山ハイキング(202) 21・07・18 

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祇園山(ぎおんやま)山頂

 祇園山ハイキングコースは八雲神社から東勝寺跡に至る約1kmのコース。八雲神社の裏手から祇園山を一気に駆け上がる。山頂は見晴台になっていて西側が開けている。標高はたかだか100mほど。由比ヶ浜、その先端が稲村ケ崎なのでしょうか。

 新田義貞の軍勢はあそこから夜半の干潮を利用して、鎌倉府内に突入して来たんだニャ。

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木の根道

 尾根道を行く。行き交う人もほとんどない。木の根がもろに露出している。猫といえども足を取られる。これでも道といえるのでしょうか。まさに天然の要害だにゃ!

 新田義貞は1333年5月8日、鎌倉幕府打倒の兵を挙げた。小手指、久米川、分倍河原、関戸で幕府軍を破り、怒濤の勢いで鎌倉に迫る。幕府軍は7ヵ所の切通しを全て封鎖。極楽寺口、巨福呂口(こぶくろぐち)、化粧口(けわいぐち)に軍勢を配置して新田軍を待ち構える。5月18日から攻防が続く。天然の要害 『鎌倉』 を攻め落とすのは至難の業。
 四日目の21日夜半、ついに均衡が破れた。新田軍は稲村ケ崎から鎌倉府内に突入。燃え上がる炎を見上げながら北条高時は菩提寺の東勝寺に入り一門と共に自刃して果てた。1333年5月22日、150年間続いた武士(もののふ)の府、滅亡す。

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北条高時腹切りやぐら

 東勝寺跡にある 『北条高時 腹切りやぐら』 は心霊スポットの雰囲気が漂っている。
 やぐらの多くは鎌倉市旧市街地を取り巻く丘陵部にある。中世の横穴墳墓で、斜面や崖地に四角形の穴をあけた洞穴の構造になっている。承久ノ乱以後、鎌倉は経済都市としても発展し人口が急増した。しかし、鎌倉は平地が少ない、そのため墓所がこのような場所になったのであろう。

 承久ノ乱(じょうきゅうのらん) : 1221年に後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して倒幕の兵を挙げて破れた兵乱。その結果、後鳥羽上皇は隠岐島に配流となり、朝廷の権力は落ちた。

 鎌倉幕府は1185年、源頼朝によって開かれた(征夷大将軍になったのは1192年)。しかし、頼朝の血筋は第2代将軍・頼家、第3代将軍・実朝で途絶えてしまう。
その後は頼朝の遠縁にあたる摂関家の九条家から将軍を迎え、摂関将軍が二代続き、さらに、後嵯峨上皇の皇子を将軍に迎え、皇族将軍は四代続いた。
 しかし実権は頼朝の妻・政子の実家である北条氏が執権として握ったままだった。


 鎌倉幕府最期の16代執権・北条守時は巨福呂口坂で戦死。14代執権・北条高時は自刃した。ここに権勢を誇ったさしもの執権・北条氏も滅亡したのである。
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by chibi-papa | 2009-07-18 23:00 | チビのお出かけ  

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