京王沿線Walking8 (198) 21・06・20

e0031605_171454.jpg
陽運寺お岩霊堂

 都心の風情と神宮外苑を歩こうと、新宿駅(京王西口)をスタート、靖国通り、新宿歴史博物館、お岩稲荷、本性寺、赤坂御用地、神宮外苑銀杏並木、表参道、そしてゴールは渋谷駅(井ノ頭線口)。12kmのウォーキング。Go!Go!

 新宿歴史博物館では入館を拒否されてしまったニャ~。気を取り直して先を急ぐことにする。
 第11代将軍・徳川家斉が治世の文化文政期(1804~1830)に江戸文化は爛熟期に達した。歌舞伎は民衆の娯楽の中心となった。左門町に道を挟んでお岩稲荷田宮神社陽運寺お岩霊堂がある。でも、最初からお岩稲荷が2つあったわけではない。もともとお岩稲荷は田宮神社の方だったが、明治時代に火災にあい移転した。その移転先で今度は戦災にあい、再び四谷に戻ってきたところ、斜め向かいの陽運寺の境内にお岩稲荷が出来ていたというわけ。これは地元の人達が田宮神社がいなくなった間にもお岩さんを祀っておこうと設けたものであった。


 脚本家・鶴屋南北(4代目)はお岩をネタに歌舞伎の脚本を手がけ、お岩稲荷からお岩の名前だけ借用して、江戸で話題となった事件を組み込んで怪談噺を書き上げた。そしてその歌舞伎は大人気になった。

鶴屋南北原作『東海道四谷怪談』は、四谷左門の娘・お岩は浪人の民谷伊右衛門(たみや いえもん)と結婚するが、夫に父を殺されたあげく心変わりした夫に毒を飲まされ醜い姿になって死んだお岩は、亡霊となって夫に祟る(たたる)という話。だが、お岩稲荷に伝わっているところによれば、お稲荷さんを熱心に信仰していたお岩は、内助の功で夫を助け家を繁盛させたという。怪談噺はあくまでも鶴屋南北のフィクション。

e0031605_1711852.jpg
本性寺(ほんしょうじ)と北向き毘沙門天

 お岩稲荷の近くに本性寺がある。本性寺は松戸市の本土寺(ほんどじ)の末寺だという。本土寺には2年前に紫陽花を見に行ったね。花菖蒲もいっぱい咲いていたね(平成19年6月10日の チビのお出かけ 117 を見てね)
 本性寺の山門とこの毘沙門堂は、戦災に焼け残った貴重なもので、双方とも総欅造りで釘を1本も使っていないという代物(しろもの)。そして山門には鬼瓦がのっている。
 毘沙門堂の毘沙門天像はもともと江戸城本丸にあったものを堂と共に本性寺に寄進された。この像が 『北向き毘沙門天』 といわれるのは、徳川家康が北方の仙台藩・伊達政宗が謀反を起こさぬよう、北方の守護神・毘沙門天を北向きに安置して祈願したからだという。
 これこれチビちゃん。北向きであって尻向けではないの!第一、お賽銭箱の上に乗っていると泥棒猫に間違われちゃうよ!


 北方といえば66年前の昭和18年(1943)5月、北の北、ず~っと北、ベーリング海に面したアリューシャン列島のアッツ島。そこの守備隊が全滅。「玉砕」の公認第1号。

 翌6月、玉砕賛美と戦意高揚を目的に朝日新聞社は歌詞の公募を発表した。『アッツ島に壮烈鬼神を哭(な)かしむる最後の突撃を敢行、玉砕した山崎部隊長以下二千数百勇士の血戦に一億国民の血涙感謝を捧げその不朽の武勲と赫々たる皇軍精神を永く後世に伝うべき、記念国民歌を左記により広く募集する。』 そして、7月、朝日新聞社は日比谷公会堂で発表大演奏会を開催した。


♪ アッツ島血戦勇士顕彰国民歌
[作詞] 裏巽(うらたつみ)久信 [作曲] 山田 耕筰(こうさく)
一、
(やいば)も凍る 北海の
御楯(みたて)と立ちて 二千余士
精鋭挙る(せいえいこぞる) アッツ島
山崎大佐 指揮を執る
山崎大佐 指揮を執る

二、
時これ五月 十二日
暁こむる 霧深く
突如と襲う 敵二万
南に邀え(むかえ) 北に撃つ
南に邀え(むかえ) 北に撃つ

三、略
四、
血戦死闘 十八夜
烈々の士気 天を衝き(つき)
敵六千は 屠れ(ほふれ)ども
吾また多く 喪えり(うしなえり)
吾また多く 喪えり(うしなえり)

五、略
六、
一兵の援(えん) 一弾の
補給を乞わず 敵情を
電波に託す 二千キロ
波濤(はとう)に映る 星寒し
波濤(はとう)に映る 星寒し

七、略
八、略
九、
残れる勇士 百有余
遥かに皇居 伏し拝み
敢然鬨(とき)と 諸共に
敵主力へと 玉砕す
敵主力へと 玉砕す

十、
あゝ皇軍の 神髄に
久遠の大義 生かしたる
忠魂のあと 受け継ぎて
撃ちてし止まぬ 醜(しこ)の仇
撃ちてし止まぬ 醜(しこ)の仇


 昭和17年6月、日本軍はミッドウェー作戦の陽動作戦として、日本海軍空母機動部隊はアラスカ・アンカレッジの西1,300kmのダッチハーバー飛行場を空襲(6月4日)。アメリカ領アッツ島(6月6日)とキスカ島(6月8日)を占領。佐渡島ほどの広さのアッツ島の占領は夏季のみの一時的な予定だったが、アメリカ軍の反攻を察知して目的が曖昧なまま占領し続けた。
 ・ 昭和17年8月7日、キスカ島はアメリカ海軍の艦砲射撃を受ける。
 ・ 昭和17年9月、アメリカ軍はダッチハーバの西770kmに飛行場を建設(アダック島)
 ・ 昭和18年2月、アメリカ軍はさらに西300kmにもう一カ所飛行場を建設(アムチトカ島)。ここからキスカ島まで150km、アッツ島まで500kmの地点まで迫って来た。
 
 昭和18年3月27日、アッツ島沖海戦でアッツ島への補給が断たれてしまった。それ以降は細々とした潜水艦による物資輸送となった。
 ・ 4月17日、守備隊司令官として潜水艦でやって来た山崎保代(やすよ)大佐(51歳)が着任。大佐に与えられた任務は独力でアッツ島を堅守すること。この時点で大佐は従容(しょうよう)として死に赴く覚悟を決めていたと思われる。
 ・ 5月12日、アメリカ軍1万5千はアッツ島に上陸を開始。日本軍は頑強な抵抗を続けたが、しだいに東端のポケットに追い詰められていった。
 ・ 5月20日、大本営はアッツ島放棄を決定。
 ・ 5月23日、北方軍司令部・樋口季一郎中将はアッツ島守備隊長・山崎大佐に玉砕を命令する。
 ・ 5月29日、アッツ島守備隊全滅。死者2,638名、捕虜27名。アメリカ軍の死者549名、戦傷者1,148名。
 ・ 5月30日、大本営はアッツ島守備隊玉砕を発表:
「一、アッツ島守備部隊は5月12日以来極めて困難なる状況下寡兵よく優勢なる敵に対し血戦継続中のところ同29日夜敵主力部隊に対し最後の鉄鎚を下し皇軍の神髄を発揮せんと決意し全力を挙げて壮烈なる攻撃を敢行せり、我が守備隊二千数百名にして部隊長は陸軍大佐山崎保代なり。敵は特殊優秀装備の約二万にして5月28日までに与えたる損害六千を下らず。
二、キスカ島はこれを確保しあり。」


 援軍を頼みに頑強な抵抗を続ける部下に、山崎隊長は札幌(北方軍司令部)からの命令を伝えなかった。故に、守備隊の大半が、アッツ島が捨て駒にされていることも玉砕命令が出ていることも最期の直前まで知らなかった。いくら待っても一兵の援軍も一弾の補給も来ないはずだ。いくら待っても・・・
 突然、万歳突撃して死ぬかここで自決するかの選択を迫られる。
 孤島で6倍の敵に今まで抵抗できたのは玉砕精神があったからではない。明日こそは、明日こそは、あ明日こそは、必ず友軍が来ると信じ、祈った・・・まさか祖国に裏切られるとは・・・


 5月29日1435電文:「敵陸海空の猛攻を受け殆ど壊滅。野戦病院にて軽傷者は自ら処理せしめ、重傷者は軍医をして処理せしむ。」 「非戦闘員たる軍属は各自兵器を取り、攻撃隊の後方を前進せしむ。ともに生きて捕虜の辱めを受けざるよう覚悟せしめたり。他に策無きにあらざるも、武人の最後を汚さんことを恐る。英魂(英霊)とともに突撃せん。」
 5月29日1935電文:「機密書類全て焼却、これにて無線機破壊処分す。」


 守備隊長・山崎保代大佐は、軍神となり二階級特進して陸軍中将に任ぜられた(最初から覚悟を決めてアッツ島に乗り込んだ山崎大佐は武人としての本懐を遂げることができたであろうが、急に覚悟を迫られた兵士達は見殺しにした祖国を怨んだことであろう)。作曲家の山田耕筰(57歳)は英雄叙事詩を歌い上げた歌詞を選考しそれに曲を付けた。画家の藤田嗣治(つぐはる、56歳)は昭和18年9月の国民総力決戦美術展に殉教画 『アッツ島玉砕』 を出品した。国民は現地部隊の発意(犠牲的精神の発露)で玉砕したと受け止め山崎大佐を崇め(あがめ)、戦意ますます高揚。参謀本部は責任を取らずに済ませた。

 アッツ島守備隊の知らぬところで全てが進められた。

昭和18年5月20日、大本営はアッツ島の放棄を決定し、北方軍司令部のもとに命令を伝授。その際、樋口中将は「キスカ島守備隊撤収の保証がなければ、アッツ島の放棄は受け入れられない」と談判。キスカ島からの守備隊撤収の約束を参謀本部から取り付けた。

見殺しにされて死んだ将兵の声は残らないから、アッツ島守備隊が全滅した後で、大本営は「彼らは実に良く戦った」と顕彰して、「見事な玉砕だった」とすれば国民の戦意はますます高揚する。それにお先棒を担いだのが、朝日新聞社であり作曲家の山田耕筰らだった。 

藤田嗣治(明治19~昭和43)昭和初期、美術界では「彩管報国」(絵筆をもって国に尽くす)という語が闊歩していた。昭和14年、陸軍美術協会の理事長に推された藤田は、戦後、日本画壇からの嫉妬もあり、藤田一人に戦犯画家としての罪をなすりつけられた。

e0031605_1713299.jpg
二代目御観兵榎(ごかんぺい えのき)

 明治神宮外苑は元・陸軍の青山練兵場であった。明治天皇がご観兵される時は榎の近くに御座所が設けられたので、その榎を「御観兵榎」と命名し保存していた。が、樹齢2百余年だったこともあり平成7年の台風で倒木してしまった。今あるのは「二代目御観兵榎」で平成8年に植え継ぎをしたもの。

 昭和18年といえばここ明治神宮外苑競技場で出陣学徒壮行会が開催された(今あるのは国立競技場で昭和33年に建て替えられた)。昭和18年10月21日、秋雨降りしきる中、東条英機首相(59歳)の閲兵の下、スタンドを埋め尽くした家族らの前で、東京都(戦時体制のため同年7月1日東京府から都制に移行)、神奈川県、千葉県、埼玉県の各大学・専門学校から召集された出陣学徒・文化系学生の隊列行進が ♪ 陸軍分列行進曲 が流れる中、執り行われた。

出陣学徒壮行会は各地で開催されたが、翌年の第2回出陣以降は壮行会は行われなかった(昭和18年11月28日のが最後)。推定13万人。その中には将校・下士官として最前線に出征した者が多かったが、学のない上官と反発する古参兵の板挟み状態だった。

 昭和17年6月のミッドウェー海戦敗退後、日本軍の戦死者が急増する。そこで噴出したのが、学生が徴兵猶予になっているのは不公平だというものであった。その空気に押され東条英機首相は国民の公平感を保ち国民一致団結・総力戦の観点から学徒出陣を決行する。

 しかし、ここで決断すべきは公平・平等の問題ではない。学徒を出陣させなければならないということはこの戦いは負けだということを意味するもので、指導者として戦争終結に向かうことを決断すべきであった。

 指導者たる者は空気に呑まれてはいけない。『あえて空気を読まない』 ことも時には必要なのだ。
[PR]

by chibi-papa | 2009-06-20 23:00 | チビのお出かけ  

<< ニャンコの上(199) 21・... 白山神社の紫陽花(197) 2... >>